出席簿!

昨日は昔の元旦事情を書きましたが、今日は昔の出席簿のことを・・・・・

現在の出席簿(出席番号)はあいうえお順ですが、昔は小学生1年と2年は誕生日順でした。

私は11月生まれなので、どちらかというと後ろの方で、同じ11月生まれの人といつも一緒といった具合でした。
壁には4月から3月までの絵が描いてあり、そこにはその月に生まれた人の名前が書かれていました。
大体、花の絵が多く、4月はサクラ、5月は菖蒲、6月はアジサイなど、そこに名前のシールを貼って6月など大勢の名前で絵が見えなったりします。

私は11月、菊の花か紅葉が多くシールは二人分でした。(誰だったかなあ)

入学してすぐの身体検査などで並ぶ時は出席順、身長体重を測り、内科医の検査も出席順でした。
近所に友達が居なかった私はいつもドキドキ、2歳上の姉が居ないと寂しくて泣いてばかりいたそうです。

こんなウブだった私も、あれから60年経ち、今ではどこにいっても一人の方が楽になりました。(笑)

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食べ物は自給自足!

昨日に引き続き、父の生前のエピソードを・・・・・
私の父は、魚釣りや貝採りが好きで、家の北側にある池でよくいろいろな物を釣って食べさせてくれた。
ウナギやナマズはかば焼きにして食べたり、ドジョウはドジョウ汁にしてよく食べた。(これは川かな?)
シジミ貝は味噌汁に、フナは酢に漬けてっぱいにしたり、本当にいろいろな物に加工して食べさせてくれた。
野菜は畑で作り、たんぱく質は池や川で、牛乳はヤギの乳、私たちは裕福な食生活で育ててくれた。

そして、父は人が好きで、よく近所の人や友達を呼んで宴会を開き、自ら包丁をもって料理をし、それは楽しい時間でした。
晩年は手打ちうどんに凝り、研鑽を重ね、東においしいとうどんやがあれば行って食べ、西にうどんやが出来たと言ってはうどんを食べ、だんだん美味しいうどんを打つことができるようになった。
いつぞやは九州まで出かけて行って「うどん打ちをした」と満足気だった。

私が結婚して家を離れ、久しぶりに帰ったとき、「おいしいうどん食べさせてやる」と言って準備をしていると、母のちゃちゃでおじゃんになったことがあり、たくさんの湯をいっぺんに捨てた時は本当に残念な結果になってしまった。
それ以来父のうどんは食べられなくなった。
次の年にはうどんやに連れて行ってくれた。
今は無いそのお店は、注文を受けてから打ち、待ってる間はお好み焼きを食べて待ってると、本当においしい ざるうどん が出て来た。
楽しいうどんの思い出はこれだけだ。


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もうすぐ父の命日で!

1月23日は私の父の命日です。
もう何年になるでしょう・・・・・

私も物忘れするお年頃なので、忘れない内にここに書いておこうと思います。

私の父は戌歳生まれ(大正11年生)、健在でしたら94歳かな?
若い時は気が短く、私の小さい時はよく癇癪を起し理由もなく怒られていました。
貧乏で現金収入がなかったので、何に対しても腹がたっていたのでしょう。
よく物やビンタが飛んできました。

私が、物ごころ着いた頃には大分性格が丸くなり、怒られることも少なくなり、お互いに持ちつ持たれつの関係になりました。
その頃には晩酌が日課になり、酔ってくると口数が増え、姉とはよく言い争いをしてましたが、同じ考え方の二人、堂々巡りの時もありました。
そして、父は長年消防団の役を請け負っていて、晩酌で気分良くなった時分に火事のお知らせが入り、私が火事現場まで車で送っていくってことが良くありました。

火事現場には野次馬がたくさん集まり、その中を少しでも火事現場に近づくため未熟な運転で行くのだから危ない時もありました。
その現場でUターンし私は少し離れたところで待ちます。
30分もすれば鎮火、すっかり酔いも醒めなごやかに帰ります。

何度も火事現場を目撃していると火事の原因が何か?段々分かってきて、冷静に分析してみたり・・・・・かわいくない子供になってしまいました。(笑)

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グランドピアノ!

先日、高校時代の「大判焼き」のことを書きましたが、それで思い出したことが・・・・・・

高校2年生の修学旅行は秋にありました。
クラスメイトのKさんは音楽の先生に好意を持っていて、「修学旅行のおみやげを先生の家まで持って行きたい」というので、仕方なく電車に乗り、挿頭丘で降り家を探して訪問することにしました。
ちょうど同じ電車から降りた可愛い小学生がレッスンバッグを持っていたので後をついていくと、勘は的中、先生の家の中に入ったので私達も・・・・・・
「レッスンが終わるまで待ってて」って言われたので部屋の隅で待っていて、30分くらいで終わったのでそれからお土産を渡し退散・・・・の予定が・・・・・・すぐ次の生徒さんが・・・・今度は大学生の声楽の練習です。男性が歌い女性が伴奏をしました。
先ほどの小学生はアップライトピアノ、今度の大学生はグランドピアノで弾き始めました。
この時はっきり分かりました。音の違いが。
それ以来「お金を貯めてグランドピアノを買うよ!」これが目標になりました。
だから、買うことが目標で上手になることは考えていなかったので今に至っています。

先生は忙しくすぐ退散しましたが、この時、私はお財布を落とし、駅で困っていると先ほどの大学生の女性が追っかけて届けてくれました。真っ赤な財布が玄関に落ちていたそうで助かりました。

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ふじや菓子店!

私は高校生時代の3年間、コーラス部でした。顧問の先生は、国立音大を出たばかりの男性先生でした。
中学生は2年間コーラス部だったから、足かけ5年間コーラス部に居たことになります。

高校生の1,2年生の時は放課後の練習を真面目にし、面白い先輩達と青春を楽しんでいました。
3年生になると、実力?を発揮、お腹が空くので高校の隣にある菓子店に寄って時々「大判焼き」を食べるのが楽しみになり、お小遣いもこれに消えてしまうことが・・・・・

1,2年生は修学旅行の旅費を貯めていて節約していたのでその反動と、3年生には部活が終わってから、「編み物教室」に通っていて、1時間ほど機械編みで腕力を使うのでカロリー補給にこの「大判焼き」がちょうど良いのです。

大きな「大判焼き」は当時30円だったと記憶しておりますが、ひと月3000円の小遣いは600円の千趣会のレコードを定期購読していたので実質2400円がほとんどこの「大判焼き」に消えていたことになります。

もうあの時のおばさまはとっくにあの世でしょけど、お店はまだ営業しているようです。
こんど帰省した時覗いてみようかなあ・・・・

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蜂屋!

大分昔の話になりますが、旭川(北海道)に「蜂屋」というラーメン屋がありました。

とんと昔なので忘れてましたが、今も営業してるようです。

私が行ったのは、24年前、長男が小学6年生の11歳でした。(夏休み)

子供3人を連れ北海道旅行、「北斗星」を利用して道南1週間の旅です。

その時に訪れた「旭川」、北海道に来たのにラーメンを食べる機会が無く、このまま帰るのは残念なので、ラーメン屋を探したずねると、「旭川駅」の地下1階に美味しいラーメンが食べられる情報を知り行きました。

お店に入り4人分を注文、ラーメン屋の壁には、残さないように注意書きがされていて、残すと怒られそうです。

子供達は、外のお店のおもちゃなどを見たくて一口食べて出て行ってしまいました。

残された私が、4人分を食べるはめになってしまい、「困ったなあ」・・・・時間を掛け4人分を平らげ満腹、満腹、お腹が破裂しそうになり苦しい体験でした。

子供達は覚えているでしょうか・・・・

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打ち込み汁!

昔の緊急料理に 打ち込み汁 というものがあります。

ご飯を炊くには時間がなく緊急を要する時は、早くておかずが要らなくて便利な料理です。

最近紹介されている「打ち込み汁」と作り方が少し違うようなので、ここに紹介したいと思います。

主な材料は、小麦粉(中力粉)、煮干し、油揚げ、大根、ニンジン、豆腐、ねぎなど

大鍋に水を入れ、かまどに掛け、煮干しを入れ火を焚きつけます。

ボールに小麦粉と水と少しの塩を入れ、よく捏ね団子状に丸めておきます。

大根、ニンジン、油揚げを千切りにし、大鍋に投入、このころには少し沸騰してます。

そして、打ち板と麺棒を用意、捏ねておいた小麦粉の塊を延ばしうどんにします。

このうどんを大鍋に入れますが、このころには沸騰して大根など煮えていて、丁度良い頃合い、うどんを入れくっつかないようにおおきく混ぜ、最後の豆腐を入れます。

後は、調味の味噌を入れ味をみます。煮干しは取り出さず食べてました。

容器につぎわけ薬味のねぎを入れて食します。

この「打ち込み汁」は、時には「どじょう汁」などに応用され、近所の人や親せきの人など集め大勢で食べる時もありました。

現代のさぬきでは、市販されている「半生うどん」を使うらしいけど、そのままだと、塩分がきつくて使えませんがどのように・・・・・調味は味噌少しかな?

私は味噌が多い方が好きですが・・・・・

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天ぷら油!

調味料では有りませんが、大事な食材に 天ぷら油 があります。

昔はこれも、サトウキビ同様、畑で菜種を作り、油絞りの加工に出します。

そして数日すると、一升瓶に詰められ帰ってきた油は、大事に使わなければなりません。

冷暗所に収められ、春祭りと秋祭りの際、サツマイモの天ぷらを作るのに利用します。

天ぷら専用の鉄鍋に油が入っていて、それをかまどに掛け、大量のサツマイモを揚げます。

天ぷら粉が余った時は饅頭を揚げておやつにしたり・・・・・

一年に数回の油を使った料理なので、家族の体重は少なく、皆、痩せていました。(笑)

他に、油で炒める料理もあり、郷土料理の こんこのたいたん ひじきの煮物

などは煮る前に少しの油で炒めてから煮る調理です。

昔のような和食は、健康にとても良いと思います。

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調味料、醤油!

子供の頃の、自給自足の生活の中でも「醤油」は作ってなくて、大きな樽(五升樽)で買って来て、それを瓶に詰め替え使っていたと記憶しています。

樽は使いやすいように台の上に載せられ、ちょうど一升瓶に漏斗(じょうご)をセットすると良い高さになっていて、樽の栓を少しづつ緩め液体が飛び出さず、かといってちょろちょろではない微妙な締め具合で瓶に移します。

あふれる前に醤油を止めなければなりませんし、こぼさないようにスリル満天のこの作業は、私は好きでした。

時には、食卓瓶に注ぐこともあり、スリルは頂点に・・・・(笑)

手作り感があって作ってないけど作ったような、安心する調味料でした。

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自給自足、砂糖編!

昔、私が子供の頃は調味料なども自給自足で、先日は味噌のことを書きましたが、今日は砂糖の事を書いてみようと思います。

私が生まれた頃は、畑でサトウキビを栽培し、秋になるとそれを「砂糖絞り機」にかけ、黒糖にし、1年間少しづつ使います。

絞り機は家に無く、砂糖絞り専門のところにサトウキビを大八車に山と積んで持って行き、絞って貰います。

数日後には、茶色の甕の中に入って戻って来ますが、甕は持って行ったのでしょうね・・・・・同じ甕だったから・・・・

甕の中の黒糖は、小さな壺に移され台所に置いておき料理やお菓子作りに使い、無くなれば補充するシステムでした。

2歳くらいの私は、甕の中に頭を突っ込んで取ろうとしますが、両手は甕の淵をしっかり持っていないとバランスを崩し、甕の中に頭から落ちますし、ようようバランスを取って手を伸ばしても取れない距離、一所懸命頑張りましたが無理でした。

毎日挑戦してもなかなか取れないので、残念ながら諦めました。

そして、3歳、4歳、段々体は大きくなり、手が届くかな?っと思う頃、黒糖は少ししか作らなく、最初から甕の底が遠く、これも努力のかいもなく届きません。

結局、この甕の中の黒糖は一度も取ることができませんでした。

物心がついたころには無かったので、砂糖は買うことにしたようです。

この時の加工代はどうなっていたのでしょう?

現金収入の無い我が家、サトウキビで支払われていたのかな?

パンなどは、小麦を持って行って貰ってきたりしていたから・・・・・

そして余談ですが、沖縄旅行に行った際、懐かしい黒糖を売っていました。糖尿病のことをすっかり忘れ買ってしまいました。今売られている沖縄の黒糖は石灰を入れていますが、それは何も入れていない純粋な黒糖だったので、懐かしさのあまり手を出してしまいました。味は懐かしい昔と同じ味でした。

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