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2009年11月 5日 (木)

コタツ事情!

11月に入ったとたん寒くなりました。

こたつを出そうかな?と思い、昨日はコタツ布団を出し天日干しなどで準備しました。

そう言えば昔の「こたつ」、面白いものがあったなあ・・・・・

幼少の頃は「ばんこ」と言って、素焼きの焼き物(陶器)、熱源は炭、長持ちするように、「備長炭?(堅炭)」を用いました。点火したばかりはパチパチとはじけたりして・・・・

「ばんこ」はドーム型になっていて、やぐらを乗せ、さらに布団、それを全部含めて「コタツ」でした。(天板無し)

なかなか暖まらないので直接「ばんこ」を抱いたり、奪いあいをしたり、倒して灰がモクモクってこともありました。

その後、「掘りコタツ」、畳半畳分をくり抜き、熱源は「練炭」を使用、当時ねこを飼っていて、「堀りコトツ」の中はねこの寝室でした。

「コタツ」の中は練炭の一酸化炭素が充満、それを吸ったねこはヘロヘロで飛び出してきたり・・・・・

その後は「電気コタツ」になり、今に至ってます。

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先日、家具売り場で「椅子式コタツ」を見て感動している母子を目撃しました。

「これだったら座らなくていいね~」(正座)

最近ではコタツ布団無しも出てます。生活様式が変わるとそれに準じて進化しますね~cat

2009年10月22日 (木)

予定日!

今日22日は、長男(一子)の出産予定日でした。

産婦人科で出産予定日を知らされると、その日に向けいろいろ準備するわけで、忘れられない日になりました。(指折り数え・・・・)

私にとって初めての経験と、知り合いの居ない地での出産でかなり不安でしたが、そこは性格でカバーしつつ、つわりと戦いながら迎えました。

そして、この年は「野菜の不作」で冬野菜が高騰し買えなかったり、雨が降らない上に熱帯夜の夏が続き、大きなお腹に腹帯で暑さに耐え・・・・でも良い事も・・・・マタニティードレス、夏用で間に合いました。

そんな母親を思ってか、10日も早く生まれるセッカチな赤ちゃんで、故郷からお産の手伝いに来てくれるはずの義母がなかなか来てくれないし、かなり焦りました。

そして、次の年のこの日、義弟に長男が誕生したり、13年前のこの日、先日廃車にした「ファミリア」が届いた日でもあり、ますます忘れられない日になりました。

今日も何か楽しいことが起こるかも・・・・・・?

2009年9月22日 (火)

お姫様を夢見ていた頃!

今日は、私が子供の頃を振り返って書いてみます。

私が小学生の頃は、集団登校ではなく、銘々で学校に通っていました。

通学途中には、大きな門構えをした地主さんのお屋敷があり、その前を通る度に、中にはお姫様が住んでいて、門が開くと、お姫様がじいを従えて出てくる・・・・少女雑誌や映画でよく目にしていたあんみつ姫が住んでいて・・・・・などと想像しながら通ったものです。

その門は重厚な門で、いつも閉じられていて、中はどうなっているのか?見たいような怖いような好奇心旺盛なお年頃でした。

その門が1年に2回ほど開き、地主のおじいさんが外で草取りをします。

門を出たところにある5坪ほどの土地で、ツンツンした草にフワフワの綿毛が縦に着いて、根が横に長く延び、草取りというより、耕して根こそぎ取り除く作業です。

朝耕し始めると、夕方には取り除いた根っこが山になっていて、次の日の夕方には作業が終わり、土の上には熊手の目できれいに筋が描かれ清らかな感じが素敵でした。

何年かすると、挨拶をするようになりましたが、相手は地主さん、むやみに話しかけられません。身分が違います。

大きくなるにつれ、この家の様子も段々分かってきました。

おじいさんは一人で暮らしていること、息子さんは町でサラリーマンをしていて1年に数回しか帰ってこないこと、もちろんお屋敷の中にお姫様は住んでいないことなどが分かってきました。

その後、私は自転車通学になり、おじいさんの存在を忘れていました。

数年経ち、門は開かずの門になり、草はボウボウ、土塀は崩れてしまいました。

おじいさんは息子さんのところで亡くなったようです。

今、どうなってるのでしょう、時々思い出しますが昔のようなお屋敷は無くなってるでしょうね。

私の理想の庭は、このおじいさんが手本を示してくださったような、真っ平らな清らかな庭ですが、我が家の庭はこれとは程遠い、手入れのし甲斐の無い、雑草だらけの庭になってしまって残念ですが・・・・・

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本日は長い文章にお付き合いくださり、ありがとうございました。

2009年8月19日 (水)

何も無い!

私の子供の頃、「何も無い、何も無い・・・・・」とよく言われるが、今の若者にどれだけ通じているのか?

どうして、何も無いのか?

どうして何も無くなったのか?

昭和16年12月、太平洋戦争開戦当時はそれほど不足してなかったようだ。

戦争が激しくなり、戦地に物資を送るものを全国から集めはじめた辺りから少しづつ無くなってきたらしい。

鉄はヘルメットや鉄砲玉に加工し戦地に送り、兵隊さんに・・・・・

田舎では、米や保存食品を強制的に供出させられ、食べるものが無くなった。(梅干)

若者が戦地にかり出され働き手が無くなった。

働く馬も戦地にかり出され、居なくなった。

着るものも、日用品もすべて兵隊さんのため戦地に送り、国内から無くなった。

戦中は「戦争に勝つ」という目的があったので我慢できたが、物資不足のところに戦地から引き上げてきた兵隊さんや民間人で物資不足は深刻な事態になったらしい。

このような事態になると、人情などの譲り合いなどしていると死んでしまうので、泥棒などはいたるところに出没、奪い合い、喧嘩などが起こりめちゃくちゃになってしまった。

戦後、3.4年は本当の意味で何も無かった時代だったようだ。

ベビーブームも重なり深刻、でも「赤ちゃん」って希望を運んできましね。

何も無いところに希望が生まれ、お母さんが強くなった。(笑)

そして、時代はガラリと変わり、「戦後強くなったのは、靴下と女」と言われるようになり、女性進出に結びつく。

昨日にテレビ番組「ココ・シャネル」の生き方を観ていて世界中同じ状態だったということが、今さらながら確認できたことは、地球という同じ乗り物に乗っているということですね~

終戦日の8月15日、個々で感じ方に違いはありますが、覚えておきたい記念日です。

2009年8月15日 (土)

ジンクス!

世の中に「ジンクス」は数えられないほどあるが、我が家(実家)では特別なものがあった。

先ず、「味噌」は朝に食べない。「味噌汁」も飲まない。

これは、「みそがつく」という言葉に原因があるようだ。

「みそがつく」の「みそ」は失敗を表し、朝食で味噌を食べると失敗をする、ところから来ているようだ。

味噌汁や味噌和えは朝食以外の夕食時や昼食時に供する。

味噌を食べないから失敗しないかというと、そうでもなく失敗だらけ・・・味噌を食べるともっと多く失敗していたかも知れないから、数を減らすという意味では効果があるのかな?

もう一つ、今流行の「おこげ」ですが、これも絶対に作らないし、食べない。

この理由は、以前もここに書いた、船長をしていた義伯父はこの「おこげ」は舟の座礁を意味し、やはり縁起が悪いということで絶対に食べなかった。

こげたご飯は捨てていた、という徹底ぶりだった。

私は子供のころ「ご飯炊き」を受け持っていたので、かまどの前に付きっ切りで注意深くご飯の出来上がるのを見届けていた。

これらも「文化を受け継ぐ」という意味では残しておきたいが、科学的ではなく、言葉だけ受け継げば十分でしょう。

ちなみに、姉は風呂焚き、妹は副食作りで性格が良く現われていると思う。

2009年5月 6日 (水)

帰省ラッシュⅡ!

昨日の続きの始まり、は・じ・ま・り・・・・・

昔は休暇も休業も全国一斉で、ほとんどの人が民族大移動のように帰省していた。

現在のようにバカンスに出かける人は少なく、故郷で待つ両親、親戚の元に帰り、羽を休めると言った休暇だった。(骨休め)

その時の専業主婦は忙しく、チケットの手配やお土産の買出し、荷物の梱包、子供の予期せぬ行動に備え準備に忙しく、それに加え、留守の間の食べ物の整理からごみの出し方に至るまで気を配ることになる。

首尾よくチケットを手に入れ、荷物をまとめ、列車に飛び乗ったとしても何が起こるかわからない。列車事故で遅れれば次の列車への乗り継ぎがスムースに行われないのは当たり前で、新幹線の指定席をとっておいても座れない。

東京駅から岡山駅まで4時間、立ちっぱなしで足が棒になったことも・・・・

新幹線は指定席に座って乗るのが普通だから、乗れなかった時は次の新幹線の指定席の間に立つことになり、混雑で身動きできないこともしばしば、岡山駅に着くころには、体はクタクタ、次の列車までの乗り継ぎホ-ム宇野線までの距離が長くヨタヨタって感じで、ホームに下りる階段が怖い。

岡山駅から宇野港まで在来線で1時間、宇野港から連絡船で高松港まで1時間かかる。もちろんここも混雑していて座れないこともある。

連絡船内は、昨日ここに書いたとおりで、天ぷらうどんを食べる楽しみがあり、やっと最終にかかったといったところだ。(ほ~)

高松港に着くと、私鉄の電車「琴電琴平線」に乗り45分、滝宮駅に降りるとタクシーで実家まで、やっと辿り着くと夜になっていて、主人の母との会話はいつも「混んでいた?座れた?」から始まる。

今日で世間の「帰省ラッシュ」も終わるようなので、この話題はまたの機会に・・・・・どんどはれ~

2009年5月 5日 (火)

帰省ラッシュⅠ!

今日のニュースは「帰省ラッシュ」情報を流し、東海道新幹線ホームでインタビューをしている。そういえば、もう25年以上になるが、私たちもホームに降りたところで「フジテレビクルー」に出くわしたことが何度も・・・・・happy01

インタビューはされなかったねどネ・・・・happy01

子供が小さい頃はまだ「瀬戸大橋」が架かる前で、宇野港から高松港まで連絡船で渡る。乗り換えも5回あり、6路線を乗り継いで、やっとふるさとに辿りつくのは夜。(は~)

嫁だから、夕食の準備や子供の世話で疲れた~とは言えず、帰省するのも体力勝負だった。(笑)

経験って貴重ですね。

何回も帰省していると、段々要領もよくなり、苦しみの中でも楽しみを見つけることができた。

新幹線の中では、おいしいアイスクリームやグレープジュース、連絡船のデッキでは大きい海老の天ぷらが載った讃岐うどん(かな泉)を食べることができた。

海の夕焼けと潮風を浴びながら食べるうどんの味は格別だった。

瀬戸大橋が出来、坂出駅に降りるようになると、うどんの楽しみはなくなり・・・・despair

子供が3人に増え、飛行機での帰省になると、旅行としての面白味がなくなったことは残念。(移動のみ)

続きは明日・・・・

2009年4月18日 (土)

ムービー!

先日は「カメラ」について、ここに書きましたが、今回は「ムービー」について・・・・

動画というのは、写真と違って動くものを撮ると活かされますね~

30年前になりますが、近所に「8ミリフィルムカメラ」を持っている家があり、一時期それを借りて、子供の成長記録を撮りました。第2子の長女が生まれてしばらくしてからです。

第1子の長男が、妹を可愛がっている場面や、歩き始めたところを写しました。

その後、世の中に「ビデオカメラ」の家庭版が普及し始め、私の相方はその開発と設計の仕事に就きました。

その研究のため、「VHSビデオカメラ」、「8ミリビデオカメラ」などは会社から借りて来て、我が家の子供達の成長の記録を撮ってきました。

時は流れ、デジタルの世の中になり、「デジタルビデオカメラ」など、20年余りの間に進化、現在では撮るだけのものも出回ってきて、軽くて小さく、どこへでも持ち歩けるものが人気のようです。

我が家では、仕事に携わっていたわりにはビデオカメラの購入はだいぶ遅く、二男が高校生になり、野球部で、「投げたボールが見たい」、「打ったボールが見たい」、「自分のフォームを見てみたい」との要求で購入することになり今に至っています。

子供達は成長し、ほとんど撮るものが無くなり、今は、孫のキッズちゃんのコマ撮りに活躍していますが、今期から保育園に入園し、成長記録の機会が少なくなりそうですが・・・・・・

2009年4月15日 (水)

カメラ歴!

先日、ここで「カメラ」というタイトルで載せましたが、今回はカメラ歴ということで載せてみました。

前回はこちらからhttp://abcsumire.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-21a8.html

毎朝、いろいろな方のブログを拝見していて、中には毎日更新しているプロのカメラマンの方の写真を見ると、さすがプロです。すばらしい写真、その中には必ず列車が写っていて、列車を探す楽しみもあります。

前置きが長くなりましたが、私のカメラ歴は長く、今までに何台も使いこなしてきたが、(壊し)やはり見た目、そのまま写せる「一眼レフ」がいいですね~

いい写真を撮るため、重いこのカメラを持って、山に登ったこともありますが、さすがに体力の限界を感じ、捨てようかと思ったことも・・・・

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最初のカメラは、高校2年生の夏休み,アルバイトで買った、当時発売されたばかりの「リコー製」でした。素人でもボタン一つで撮れるという振れ込みで、フィルムが自動巻きという最初の製品でした。

高校の修学旅行、撮れるから面白く連続で撮り、現像時に小遣い全部叩くはめに陥りました。(笑)

出来た写真は、素人ですから、「これ何~」というものばかりでガッカリしました。

次に買ったのが、「一眼レフ」で、新品は高価で買えませんから中古の「ヤシカ製」で、当時の給料2ヶ月分の値段、36、000円、清水の舞台から飛び降りましたぁ~

見た物そのまま写せますから、失敗は少なく、24枚撮り終わるまで時間が掛かり、カメラ屋さんで、半分現像、半分残すという裏技を利用したこともありました。

その後は「使い切りカメラ」、これは軽くて便利、旅行などには軽くてフイルム交換をしなくて良いという長所もあります。

その後、デジタルカメラ初代は「オリンパス製」で電池を入れて使う物でした。(単3、4本)

電池の消耗が激しく、旅行などで5・6枚撮ると電池切れなど問題あり、その上、電池を入れる場所のコイル切れなどで、便利ですが余り使えませんでした。

これと平行して「ポラロイドカメラ」、これは「一眼レフ」と現像が同時で便利ですが、最初のフィルム費用が掛かりました。フィルムの消費期限がありましたし使い切らないといけません。

次のデジカメは、娘から譲り受けた物で、充電式、これも数枚撮ればバッテリー切れを起こし、旅行途中で使い切りカメラを購入して凌いだこともありました。(笑)

その後、購入した「携帯電話」に付いている「デジタルカメラ」、これは優れもの、いつも手元に置いてありすぐ撮ることが出来ますし、条件さえ揃えばきれいに撮れます。(現在は振る活動)

最近は、二男が購入し、置き忘れていた「富士ファインピックス」を救出しました。

画素数が大きく、ここに貼れないのが残念です。

あ、そうそう、思い出しました。

子供のころ、外国航路の船長をしていた伯父が蛇腹のカメラをくれました。

不思議な作りに興味津々、バラバラに分解してしまいました。(笑)

今度買う時は、やはり「一眼レフ」でしょうか・・・・ガシャの音がいいですね~それから、重さ、高級感があります。使い分ける時代です。

次回はムービーについて・・・・・・

2009年3月 1日 (日)

味噌!

昨日は「黒糖」のことを書きましたが、今日は「調味料」つながりで「味噌」のことを書いてみようと思います。

今では「味噌」も全国の味噌が市販され手に入りますが、昔は家庭で作っていました。(今でもこだわる家庭もあります)

やはり「味噌」作りも大変な作業で計画を持って行います。

食材の大豆はもちろん、米麹、塩は欠かせませんし、大きな樽も必要です。

これらは正月前までに揃えておき、正月用の餅を搗いた後、臼や蒸し器を使った後の片付けをする前に1年分の「味噌」作りをします。

米麹は、近隣の町「滝宮」の麹屋さんに注文(米を前もって持って行く)しておき、1週間くらいで出来上がったころ引き取りに行き、それを使います。

29日に大豆を水に浸し、膨らませておき、30日は、早朝から大鍋で膨らませた「大豆」を煮ます。(この匂いで目が覚める)

煮上がった「大豆」を石臼の中に移し、杵でこね潰します。

この作業は搗くのではなく潰すので力が必要です。男手のない我が家では、私の担当でした。骨が折れます。(骨折ではありません)

潰した「大豆」を広げて冷まし、人肌の温度で塩と米麹と混ぜます。

それを4斗樽に入れ、保存します。とにかく1年分ですから、作業には力が必要で骨が折れる作業でした。(餅を食べ力を出す)

我が家では、2種類の「味噌」を作り、1種類は、夏を越す塩を利かせた物、もう1種類は夏までに食べてしまう「甘味噌」です。(甘味噌は瓶の中で)

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2週間ほどすると「甘味噌」は食べられます。

私はこの味噌が好きで、朝食にはご飯の上の載せて食べていました。

今から考えると、成長に必要な大豆たんぱく質を沢山摂っていたということになります。

余談ですが、大豆の栽培は、田んぼのあぜに植え、「畦豆」とも言っていました。これは全国共通の呼び名とも言われています。大豆は虫がつきやすいので、離して植え、害虫から防ぐ意味もあったのでしょう。

生活の知恵と情報が網羅された江戸時代、農業(農家)は知恵の宝庫でした。

今、衰退しつつある「農業」を復活させたいと願っております。昔流ではなく、合理的な農業が出来れば面白いと思いますが・・・・。

2009年2月28日 (土)

黒糖!

喉に良いと言われている「黒飴」ですが、「サトウキビ」を絞って作ります。

子供の頃は、以前にもここに書きましたが「自給自足」で、砂糖も自家製でした。

畑でサトウキビを栽培し、それを加工所で黒砂糖にして、大きな瓶に入れて、1年間、それを使います。

瓶は奥座敷の廊下に置いてあり、子供の私には瓶の底まで手が届きませんでした。

食べたくて頭を突っ込み、真っ逆さまに落ちそうになることしばしば、高さ40センチくらいの瓶ですから、年齢は2,3歳の頃だと推測されます。

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先日の「沖縄旅行」で黒糖工場見学があり、サトウキビを機械に通し、絞り汁を煮詰めるところを見ました。煮詰まると石灰を加え固めます。

だから、沖縄産黒糖は白っぽくなってますが、我が家のものは石灰が入ってないので黒に近い色でした。

「沖縄旅行」で、昔の生活の場面を再現している「琉球村」では石灰を入れてない我が家のものと同じ黒砂糖、もちろん買いました。同じ味でした。

サトウキビは子供のおやつにもなりました。堅くて竹を噛んでいるような食感で、甘い汁が出てきますから、このおやつは結構気に入っていました。

子供の頃の味覚って、大人になってもよく覚えています。

2009年1月20日 (火)

ペット!

ここのところ、幼少の頃を思い出すことが・・・・・。

(忙しい日々の人生の休息期に入ったのかな?)

昨夜も、本宅からの帰り、「昔、犬やネコ飼っていたなあ・・・」なんて

今回も「紡ぎ糸」カテゴリーで書いてみたいと思います。

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幼少の頃、今流に言えば、ペットですが、犬とネコを飼っていた。

犬の名前は「イチ」、白と黒のブチで、毛並みは長く、性格は大人しく賢い犬だった。血統などは分からない。

「この犬は利口で、一回来た人は分かっていて、二回目からは吠えないんだよ」

ネコは「ミー」、ネコは代々同じ名前で、三毛猫であったりトラネコであったり、風貌に関係なく「ミー」だった。

この犬「イチ」は、祖父が面倒をみていたので、祖父が亡くなった日に密かに姿を消し、翌日、裏山近くで発見された。

祖父の葬儀で、てんやわんや、犬に餌をやろうと、何度も名前を読んだが出てこない。

「沢山集まった人にびっくりして姿を消したのかな」、っと家族も忙しさにかまけて忘れていた。

何げなく、裏山に行くと、そこで冷たくなっている「イチ」を見つけた。

「おじいさんが連れて行ったんだね」

祖父の葬儀は盛大に行われたが、犬の「イチ」の葬儀は、祖母が紙の飼料袋を開いた簡単なものに「イチ」をくるみ、裏山の頂上近くに運び土の中に埋め、「般若心経」を唱え、「イチ」の葬儀は終わった。

その後、柴犬、ヨークシャテリア、黒い犬など次々飼ったが、「イチ」のように賢い犬には出会えない。

ペットという、かわいい、癒しの存在ではなく、家族の一員で、家族を敵から守るという、責任を担った存在だったような・・・・・・

2009年1月16日 (金)

家畜!

今日は、昔を振り返って「すみれの紡ぎ糸」のカテゴリーで、書いて見たいと思います。

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子供の頃、家には家畜を飼っていて、その世話の一部は子供の仕事になっていた。

ニワトリは、産んだ卵を集め、箱に入った籾殻の中に入れておく。陶器で出来た水を入れる容器の中の水を取り替える。

ヤギは小屋から出してクサリを着け、草むらに連れて行って、草を食べさせる。(油断すると飛び出していくので捕まえるのが大変)

牛は、小屋の中の敷き藁を取り替えたり、えさの米藁を飼葉きりで切り、山になったところで、飼葉置きに山にしておく。(ほこりが立つので髪の毛はほこりだらけ)

小学低学年頃までの家畜の世話は、このような簡単なものだったが、高学年になると、包丁をはじめ道具を使っての巧みの技が使えるようになったので、ニワトリは雑草を小さく刻み、それを飼料にする。時々貝殻の粉を混ぜてえさ箱に入れてやる。

牛は、飼葉桶の中に、切った飼葉と米ぬかをいれ、その中にバケツで水を入れ、金棒で何度も混ぜて柔らかくしてやる。これを、牛小屋の台の上に置くのだが、重くて、重くて持ち上がらない。

ヤギは、その頃には居なかった。

妹(5歳、年下)の面倒を見ながら、合間でこれらの仕事をするのだから、容易なことではなかった。

夕方になると、ご飯の支度、家族が帰ってくるまで、てんてこ舞いでした。

今となっては、良く体力が続いたなあ・・・・。Vfmi1881

写真は、「阿見農園」の梅です。

蕾が膨らんできました。

2008年11月30日 (日)

自給自足!

昔の生活は「自給自足」で、ほとんど自家生産。

何か必要になれば、家族の誰かがどこからかもって来る。

今の時代のように、○○ブランドの何年物、なんて考えたことも無く、しいて言えば、この物はいつ手に入れた物か分かるように物の隅っこに年代と名前の焼印を押して、所在を明確にしていたくらいだ。

こんな事もあった。

妹が生まれ、母のおっぱいの出が悪く、「しじみ」を食べさせなければ・・・・・っと、父と小川に捕りに行ったり、田植えの後の「うなぎ捕り」や「沢蟹捕り」など、食に関するものから、生活に必要な、燃料の「雑木の枝集め」や「こっぱかき」など、例をあげれば限が無い。

私は、昔の「自給自足の生活」と、今の「お金中心の生活」の両方体験出来たこと、今となっては貴重な体験です。

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今週は、「すみれの紡ぎ糸」というカテゴリーで綴りましたが、つたない文章を最後までお読みいただき、ありがとうございます。

機会がございましたら、時々、「思い出話」として書いて行きたいと思います。

今後共、よろしく、お願いいたします。

2008年11月29日 (土)

現金収入!

昔話を書き始めると、限り無くなりますね~

先日、昔の田舎では現金収入が無いと書きましたので、そのことをお知らせしようと思います。

田舎での収入は、1年に1回の「米」と1回の「麦」。

買い物は、1年に2回の春と秋のお祭り前と、お正月前の食材、子供のお年玉や祭りのお小遣いは現金で支払う。

貯金は、タンス貯金、沢山買う時は奥のタンスから大きい札を出して、食材の「油揚げ」や「天ぷら」、「こんにゃく」を買いに行く。

自家製野菜や行商で買ったものを使って調理し、行事に向け、何ヶ月も前から計画をしていた。

例えば、春の祭りは5月初旬で、「筍」を使った「五目寿司(ばらずし)」と「てっぱい」、秋祭りは10月で、「サトイモ入りの五目寿司」と「天ぷら」と言った具合。

だから、「筍」や「サトイモ」の生産は欠かせなく、不作の時は親戚を回り貰ってくる。(貰いに来る)

話は横道に反れるが、「サトイモ」の保存、冬を越すため山の傾斜を利用して横穴を掘り、そこで春まで保存していた。寒さで腐らせると次の種芋がなくなり、秋の祭りの五目寿司に入れられなくなる。

私は「サトイモ」が嫌いだったので、どうでも良かったのだが、祖母は「必ず入れなければ寿司じゃない」と怒っていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

時代は移り変わり、私が小学生になった頃には「カマス作り」「花作り」「果物作り」「卵」などの販売で現金収入を得ていた。(昭和30年~)

2008年11月28日 (金)

子供用自転車、1号車!

以前、このブログの中で、次回に持ち越しになっている「子供用自転車」のことを綴ってみようと思います。前述の記事はこちらです。

http://abcsumire.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-1d11.html

「子供用自転車」を持っている家庭は極わずかで、現金収入の無い農家では、大人用を買うのが勢一杯。

姉が小学2年生の時、大病を患い、うわごとのように「自転車買って」を連発、近所に住む「瓦屋」のおばさんが、「後で後悔するから買ってやったら」の一声で決まったらしい。

その自転車は、赤色の20インチで、昔からモデルチェンジ無しの今のものとほとんど変わらない形状。

2年後には、ピンク色の22インチ2号車を買うことになり、自然のごとく、お下がりで私のものになった。

2008年11月27日 (木)

2度目のおつかい!

昨日に引き続き、「おつかい」つながり・・・・・・。

それは、小学2年生の秋のこと、一番近いお店の「おつかい」は1キロ弱の距離にある慣れた道。

家から見えるので、安心。自転車にも乗れるようになり、ルンルン気分で出かけた。買い物は「天ぷら」(さつま揚げ)。

田舎では、自給自足が常で、買い物は年に2回、3回。

春のお祭りと秋のお祭りの前日、ご馳走に入れる食材を少々、と正月前のまとめ買いのみ。

この日は、普通の日なのに、なぜか祖母に買い物のおつかいを頼まれた。

「天ぷら買って来て」ということで、間違えないように、何度も繰り返し暗唱しながら「天ぷら、天ぷら・・・・・・」

途中の大通りは一旦停止をして横断する。自転車を止め、左右を確認、横断し、再度自転車にのる。

この一旦停止手前は上り坂になっていて、自転車を降りると押して上るようになる。

ここを過ぎると、舗装道路になっていて、ルンルン気分で走るとすぐそこって感じ。

このお店は、私電の駅と並んだ、ちょっと下がったところにあり、お店の中は暗く、おばあさんが店番をしている。

売ってる品数は少なく、「天ぷら」「油揚げ」「こんにゃく」「豆腐」と「駄菓子」が少し置いてあるのみだが、近隣の人には重宝がられていた。

自転車でブーンと店の前に横付けすると、店の中に飛び込んだ。

「こんにちは~」と言ったまではよかったのだが、買い物の名前を忘れてしまった。

「何だったかな?こんにゃくくださ~い」

「はい、はい・・・・○○円ゃね」

お金を出しながら、何か違っているような?

こんにゃくだったかな?天ぷらだったような?不思議な気分になってきた。

品物の「こんにゃく」を受け取ったものの、どうしよう?と、ますます不安になり、帰り道は、意気込んできた時とは別人のような落ち込みに変わった。

家では、私の帰りを待ちわび、天ぷらを入れるまでに煮上がっている切り昆布があった。

買った物を手渡すと、祖母は「こんにゃく買ってきたん?天ぷらって言ったのに・・・・」と残念そうに言った。

夕食の時の裁判は、当然のように、この話題になった。

2008年11月26日 (水)

はじめてのおつかい!

一年に一度、テレビ番組で放映されている「はじめてのおつかい」ですが、家族、テレビ局、視聴者が見守り、ドキドキしながらみることになりますね~

誰でも、「はじめて」はあるもので、私もはっきり覚えている。

それは、小学1年生の秋でした。

学校(2.3キロ)から帰ると、祖母に「漬物の塩を買ってきて・・・・」と言われ、100円と布袋と紙切れを持たされた。

お店は、通学の途中の「塩屋」(屋号)で、疲れて帰ったばかりなのに、同じ道をもう一度2キロほど歩くことにまった。

以前にも書きましたが、逆らうことはご法度、夕食が食べられないし、夕食のテーブルでは「今日の出来事」の裁判が待っている。

毎日、カロリーの少ない食事、それを摂れないということは、「死」を意味する。

仕方なく出かけ、空を見上げ、秋だなあ~

塩屋に着くと、お店のおばあさんが「何がほしい?」と聞いてくれた。

「塩、1貫目(かんめ)」と書いた紙を見せると、慣れた手つきで天秤バカリに取り付けられていた竹で編んだ変形かごを外し、その中に塩を入れ、天秤バカリに取り付け水平になるまで少しづつ加えてキッチリ量った。

それを布袋に入れ、おつりの20円を紙切れに包み、一緒に入れてくれた。

布袋の口の紐をキュット結び、背中にしょわせてくれた。

重い塩(3.75㎏)と命より大切なお金で、一気に緊張が走った。

6歳にしては重く、背中にしょって歩き出したが、100mごとに立ち止まり、体勢を立て直しながら一所懸命歩いた。

重いものを担ぐと下を向く体勢になり、道路の端っこの草を眺めながら、転ばないように一所懸命歩いた。

大通り(国道32号線)から細い道に入ると、一気に疲れが出て草むらで一休みすることにした。

太陽は西に傾き、空は夕焼け。

休んでいると眠くなり、記憶にはないが眠っていたようで、気が付いたときは薄暗くなっていた。

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布袋を背中にしょうと、ちょうど横腹の辺りに布袋の端っこがきて、そこを持つことになる。そこにお金のようなものがあるのを手探りで見つけた。

「神様がお駄賃にくれたのかな?」

そう思うと元気が出てきた。

2008年11月25日 (火)

会心の出来!

私達のように田舎では、子供の習い事となると、お習字教室やそろばん教室ですが、その教室が近所に出来るまでは、自宅に先生を呼んで習っていた。

2歳違いの姉の習い事で、先生は、父の従兄弟に当たる「油山(あぶらやま=地名)のお姉さん」がお習字を教えに来てくれていた。

お姉さんは、お勤め(OL)をしていて、お勤め帰りに我が家に寄って教えてくれていた。

姉が小学生になった年だから、私は4,5歳だった。

私は興味津々で、墨のすり方から、筆運びまで息を呑むくらい一生懸命見ていました。

「はは~ん、このように使うのか・・・・」

下敷き、半紙、その上に文鎮を置き、太筆で大きく「一」を書いた。

何度も同じ字を練習。

「これくらいだったら、私も書けるわ」と変な自信を持った。子供だからね。

何度か見ているうちに、書きたくなった。

誰も居ないところで、太筆を持ち出し、障子戸の下板のところに、大きく太く十の字を書いた。

子供心にも会心の出来で、自信満々。

母に見せると、作品の出来以前に

「こんなところに書いて!」鬼のような形相で怒られた。(感情的)

それ以来、書道に興味が持てなく、今に至っている。

冷静に考えれば、あの時、母に芸術を見る目があれば、私の才能を見出すことが出来れば、と思うと残念です。

姉は高校生で書道家の卵?妹は芸術的なまとまった字を書き、私は何度練習をしても「あの時のトラウマ」で上達しない。

数年後、物置の隅に置いてあった芸術作品ですが、大人になって見ても会心の出来でした。今どこにあるのでしょう・・・・・・ネ。

2008年11月24日 (月)

おいしかったもの!

美味しいものが数ある中で、今まで生きてきて、一番おいしかったものは?

「それは、あの時のおかゆ」

この、「おかゆ」は、絶食3日目の後、本当においしかったので、完食しました。

思い起こせば、小学3年生の夏休みのこと、父に言われるまま母と電車で病院へ行った。(昔は親に逆らうことはご法度)

病院では、白衣を着た医師と看護婦が待ち構えていて、椅子に座らされ、白い布で目隠しをされた。(死刑執行のよう)

「口を開けて・・・・」医師の声

のどの奥を何か・・・・・「口を開けて・・・」医師の声

繰り返すこと30分以上・・・・

「えい!」医師の声

「痛い!」あまりの痛さに飛び上がったら、私の膝の上に置いてあったそらまめ型のアルマイト皿がひっくり返った。その中には、私の喉にあった扁桃腺を取り除いたものが入っていたらしい。私は目隠しをされているので見えない。母はわびているようで、何か悪いことをしたのかな?と思っただけで、医者の白衣が血だらけになったらしい。

後で聞いた話だと

陶(すえ=地名)の診療所に耳鼻科の先生が赴任してきた。名医という噂で評判になり、風邪を引き易い私がターゲットになり、扁桃腺の手術を受けることになった。

帰り際、「今日、明日は食事を摂らないように、水分は摂ってもいいですよ」「今夜は熱が出ると思うので、これをかしますから冷やしてください」と長いゴムの水を入れて使うものを貸してくれた。

夜はそれで冷やし(井戸水)次の日には熱は下がっていた。

そして3日目の昼食、珍しく姉がおかゆを作ってくれた。姉とは2歳違いなので小学5年生。わからないまま一生懸命作ってくれた。

それを一口食べると「おいしい・・・!」と全部食べてしまった。私がおいしそうに食べているのを見て、姉も食べたかったようだ。(後のまつり)

父は病院や医師が好きで、1年後の夏休みには姉が扁桃腺の手術を受け、2年後は妹も受けた。

医師も手術が上手になり、妹の時は10分で手術を終え、入院し術後を見守ることになった。

手術後は風邪で熱を出すことも無く今に至っているが、喉の風邪の時は今でも痛い。

2008年10月16日 (木)

ファミコン!

我が家のテレビゲームデビューは遅く、世間から取り残された経緯がある。

「ファミコン」が来たのは、「スーパーファミコン」が世間で、もてはやされていた時期だから、かなり遅い。

保障書によれば、1995年8月28日になっているが、記憶と合わないなあ・・・・(13年前?)

私の記憶では、1989年?長男が12歳の時、世間では、子供達がファミコンのし過ぎで、眼精疲労と、睡眠不足で学校での勉強についていけない子供が多発し、問題になっていた。

子供同士、外で遊ばなくなり、家に上がってテレビゲームに興じ、迷惑ということが問題になっていて、小学校のクラス懇談会でも取り上げられる課題だった。

我が家では、どうして世間より取り残されたか?

長男が8歳の時、どうしてもほしいということで、大手電機店に行き、店員さんに

「ファミコンありますか?」と尋ねると

「売り切れで、ありません」という返事だった。

仕方がないので、家に帰り

「ファミコン売ってないから、将棋を教えるよ」ということで、ナカバヤシふえるアルバムのセロファンの間に将棋の升を印刷してある紙を挟み、それで駒の動かし方を教えた。

ちょうど、記憶脳が発達していた時期と合い、めきめき上達、すぐに私の力では及ばなくなってしまった。

話が本題から外れてしまいましたが、4年後、スーパーファミコンに流行が移ると、ファミコンを買う人が減り、手に入るようになった。

その時買った物はすでに壊れ、今、使っている物は2代目、二男の友達から譲ってもらった物だ。多分1995年のゴム印が押されている保証書のものに違いない。

ファミコンのゲームは「スーパーマリオ」「ヨッシーのクッキー」「ヨッシーのたまご?」など試してみたが、今、夢中の「ワリオの森」が私には一番合ってるように思う。

このゲーム、一度は全部クリアしたのだが、その後、ゲーム数がなぜか増え続け、先日114までクリアし、115でゲームオーバーになってしまった。

Vfmi1545

2008年9月18日 (木)

大人用自転車!

3年生の夏休みになると、祖父が亡くなった。

もう大人用自転車に乗っても、注意されることもなくなり、背伸びして乗ってみる。

三角乗りをしている友達もいたが、私は足が長いので男乗りができた。

2学期なると、大人用自転車で友達の家に遊びに行く。

友達と一言でいっても、小学校から帰宅し、小学校よりさらに向こう側だから3キロ以上乗って行くことになる。

ある日、友達の家から帰る途中、薄暮で道が見えにくく、上り坂をこいでいると、バランスを崩し畑の中に突っ込んでしまった。

その畑は道より低く、畑に柿の木が植えてあり、ちょうどその柿の枝の1本に首を引っ掛けて首吊り状態になり、自転車もろとも落ちてしまった。

首も痛いけど自転車をかつぎ上げなければならない。

こういうときは「火事場のバカ力」が出るもので、自分でも関心するくらいの力を出して担ぎあげ、何食わぬ顔で帰宅したが、後で首とあごの間が痛くなったが誰にも言えず50年暖めていた失敗談を、今日告白する。

2008年9月17日 (水)

自転車!

私が子供だった頃、子供用自転車を持っている家庭は極わずか、一般家庭では大人用で練習した。

大人用でも貴重で、一家に一台、家長である祖父が乗り、他の者は触らないよう注意を受けた。

前にも書いたが、家は3村の境目にあり、どこに行くにも遠く、お使いは徒歩なので、一日でも早く乗れるようになりたかった。

我が家には子供用自転車はあったものの、練習する広場がなく、いきなり道で乗ってみる。

下り坂道で乗ることができれば、後は自然にまかせ、倒れないようにハンドルでバランスをとれば前進する。

このような形で練習をするから、乗れるようになるのは遅く、小学2年生の1学期だった。

どうして覚えているのか、この年の夏休みは、羽床診療所に毎日自転車に乗って鼻の治療(鼻を洗浄)に通った。そのため強烈に覚えている。

1年生の夏休みの診療所通いは、自転車に乗れなくて、毎日徒歩で診療所に通い、診療所に着く頃には、大量の汗をかき、家に着くと体力を使い果たしぐったりしていたからだ。

子供ながら、「自転車なら楽なのに・・・・」と考えていた。だから1年生の夏休みには乗れなくて、2年生の夏休みには乗れていたことに間違いない。

子供用自転車は、買ってもらったのか、姉のお下がりを貰ったのか、そのあたりの記憶はないが、赤色の自転車だった。

(姉とは2歳違いで、姉は早々子供用自転車を買ってもらっていた。理由は知っているが、又の機会に・・・・・)

2008年9月15日 (月)

紙芝居!

私の生まれ育ったところは、3村にまたがった、中途半端な場所にありました。

家はK村、買い物はH村、お寺はT村、とそれぞれ違う村に行くことになります。

今日の記憶は6歳頃のことです。

T村のお寺のことをお話します。

このお寺は、回り回った薄い親戚関係にあり、1年に3回ほど祖母のお共で行きましたが、それ以外に子供達で遊びに行ったことがありました。

お寺に着くと「○○さん、よ~来たね、へえ、へえ」

私たちの姿を見つけると、必ず、お寺のおばあさんがこのように言います。

最後の「へえ、へえ」は自分の言葉に自分で相槌を打っているようです。

お寺の中は、一般の家庭では目にすることのないものが置いてあり、子供には興味津々です。

ある日のこと、場景はよく覚えていませんが、おばあさんが「紙芝居」を仏壇の下から出してきました。

縁側で見たような・・・・。

この頃は物資不足で紙は貴重品です。一般には子供の本などは買ってもらえず、ここで見た「紙芝居」はインパクトがありましたから、吸い込まれるように見ました。

「ももたろう」、「ぶんぶくちゃがま」「さるかにがっせん」など昔話の紙芝居を一通り楽しんだ後、座敷の奥にある、もう一つの仏壇に興味が沸き、覗いてみることにしました。

扉を開けると、仏様の首から下が見えます。

子供だから、「顔はどうなってるのかな?」っと疑問を持ちます。

扉の中に頭を突っ込んで、上を仰ぐと、仏様の目が私を見ていました。

「ドキッ!」

声も出ない怖さでした。

「見るんじゃなかった」と子供なりに後悔しました。

50年経った今でも、お寺ー紙芝居ー仏様と関連して思いだし怖いです。

おばあさんは、100歳近くでお亡くなりになりましたが、高齢になっても檀家回りをしていたようです。

「敬老の日」に思い出した、おばあさんと「へえ、へえ」の声でした。

2008年8月25日 (月)

盆踊り!

最近は「盆踊り」、お盆をはずして行われているようです。

お盆の14、15日は故郷に里帰りするので、町内の「盆踊り」はそれを外して行うようです。

私の子供の頃は、お盆はふるさとで「盆踊り」が常でした。(笑)

母の里は、徒歩15分くらいのところにあり、盆、正月はそこで過ごしました。

母の兄弟は8人で、それぞれ子供を連れてきますので、子供だらけになります。いとこ16人まで数えましたが、その後はいとこの子供も加わって、何人だかわかりませんね~

その子供全部が「盆踊り」に繰り出しますから、民族大移動です。(笑)

小学校の運動場の真ん中には「やぐら」が組まれ、裸電球と、太鼓で質素なつくりでしたが、なにやら子供にはウキウキする独特な雰囲気がありました。

「炭坑節」の音楽で、皆、自然に体が動き、子供達は大人に混じって体を動かします。

踊りの振りは・・・掘って掘ってまた掘って、担いで担いで、後下がり・・・・・・

毎年参加していると、だんだん上手に踊れるようになり、それが遊びのようになり、楽しみにもなりました。

今では「炭鉱節」ってなに?っと質問されそうですが、「炭鉱」に関係なく「ソーラン節」のように、踊り繋げてほしいですね~

2008年8月17日 (日)

東京オリンピックⅢ!

連日、オリンピックのメダル獲得数と、競技の話題が取り上げられていますが、残り7日になってしまいました。

水泳の「北島康介さん」の金メダルが栄えて、次に続けとばかり新人の選手もがんばっています。

ところで、この水泳のタイム、0.01秒の差で、1位と2位・・・・すごいですね~っというのは、時計の話です。

今回はΩOMEGAが使われています。

さて、東京オリンピックの時はどうだったでしょう?

正解はSEIKOでした。

それまでは、世界の時刻はΩOMEGAが標準で、ほかのメーカーは専用ならず、といった具合でした。(時計はスイス)

この日のために、日本の時計メーカーの努力もあり、SEIKOが採用されました。

これも、日本人にとって、自信につながりましたね~

それ以来、SEIKOは世界に認められ、海外でも有名になりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

余談ですが、「松田聖子」の名前はこのSEIKOを取ったようです。

車のマツダと時計のセイコーです。

そのため、海外ではすぐ覚えてもらえるそうです。(ずるい~)

実力がないとすぐ消えていましたが・・・・・・。

2008年8月12日 (火)

東京オリンピックⅡ!

連日、北京オリンピックの放送をみていると、思い出します。

今日の体操団体、銀メダルでした。表彰台に立ちメダルを首に掛けてもらっています。そして花束を受け取ります。

そばで介添えしている女性の服装が目に入ってきました。

チャイナ服を、今風にアレンジしたデザインでしたね~

東京オリンピックでは、和服の第一礼装の振袖でした。

当時の振袖は、金糸、銀糸で刺繍をほどこし、それはそれはきらびやかな、世界に誇れる民族衣装でした。

この振袖姿を見るのが楽しみの一つでもありました。

もちろん体操の演技も東京オリンピックを境に、鉄棒演技を真似る人続出で、同級生のT君は鉄棒で大車輪をぐるぐる回っていました。懐かしいですね~  今はもう出来ないでしょうね。

そう言えば、大車輪、何年か前、セゾンカードのコマーシャルで見ましたね。

T君ではありませんでした。(笑)

2008年8月11日 (月)

東京オリンピック!

今、「北京オリンピック」が盛大に行われていますが、44年前は東京で行われ(1964年)、その後、開会式の日は「体育の日」という記念日になりました。

私は、当時14歳の中学2年生、町内の電気やさんの粋な計らいで、各教室にテレビを備え付けてくださり、ライブで観ることができました。(カラーはまだまだ)

開会式は代々木の国立競技場で行われ、オリンピックを映像で残すため、映画用カメラで撮影(市川昆監督)し、「東京オリンピック」という映画が出来上がりました。

オリンピック開催地はどこも同じように、道路の整備、鉄道の整備、空港の整備など急ピッチで行われ、現在使われているものすべてが、オリンピックのために造ったものと言っても過言ではありません。

「東京タワー」、「新幹線」、「首都高速道路」など、すごいことです。

国家の威厳を賭けて・・・・「戦後は終わった」。

一つ忘れるところでした。

富士山に登る「スバルライン」の建設もあり、富士山の5合目まで車で登れるようになりました。やはり日本のシンボルは世界にアピール!

私達は田舎に住んでいましたので、東京は遠く、他の国のことのような感覚でした。(笑)